1988年アデレイド市街地サーキット(オーストラリア)その1 |
1988年も忘れられない年になった。 実はこの年の3月に無事大学を卒業していたが、就職活動を休止していた為に小生は決まった仕事に就かず、アルバイトでお金を貯めていた。 理由は簡単だ。 若い頃にだけ出来よう物で、冒険旅行をしたかったからだ。 大学を休学する事も考えたが、小生の大学は授業料を全額納入しなければ休学扱いにはならなかったのだ。 友人の大学などは、わずかな諸経費を収めるだけで休学扱いにしてくれたそうだ。 3月に大学を卒業し、7月にはスキー板を担いで、とうとう冒険をする国、ニュージーランド(NZ)に来てしまった。NZを選んだ理由の一つに、アデレイドでF−1を観たかったからだ。 7月下旬に到着するや否や、メスベンという小さな街に根を張った。毎日スキーだ。 スキーシーズンも後半になり、実際にF−1遠征の計画を練り始めた。 クライストチャーチ/メルボルン間往復航空券と、オーストラリアのビザ。 以上2点を手に入れる為の行動を開始した。 アデレイド行きの飛行機はないのでメルボルンまでが飛行機で、その後は長距離バスの往復となった。 航空券は直ぐに手に入ったが、グランプリへの入場券と現地宿泊でドタバタした。 そこで女神と出会う事になった。 メルボルンから遊びに来ていた日本人女性が、スキー終了後に帰国し、そこでその両方を何とかしてあげよう・・・と言ってくれた。 英語が話せない上に、この無謀な試み故に、他人のヘルプを必要としてしまった。 彼女はメルボルン帰着後にGPチケット(勿論自由席)を購入してくれ、後は宿泊先を見つけるだけになった。 しかし、ここからが迷惑をかけることになってしまった。 行動開始が遅すぎたようだ。何所にも宿泊所がない。(その後、旅行会社で働いたから言える事だが、宿泊所など幾らもであったのだ) 彼女も小生もホテル、近い・・・等という言葉にこだわり過ぎたのだ。 しかし、間もなく市内の安ホテルに予約が入った・・・と連絡をもらえる幸運をゲットした。 実際に辿り着いたホテルは、完全に一つ星以下のホテル。それでも布団はあるし、眠られるだけましだ。 しかし、GPウィークは暑くなった。 日中は最高気温が38度。熱帯夜は当然。 暑いから水を飲もうとするが、蛇口から出てくるのは茶色の液体。暫く流していても茶色は消えない。 「これでは飲めない。これは錆か?それとも?」 結局翌朝は喉カラカラで起床。 「さーて、行くか!」 カメラ機材を担いで、健康サンダル履いて街外れのサーキットへ。 服装は言うまでも無くCAMELのレーシングスーツレプリカ。 帽子もHONDA。セナもピケもマンセルもかぶっていた黒の帽子。(覚えていますか?) さて、GPウィークの火曜日にアデレイドに入り、翌日の水曜日からはサーキットを歩き回る事にした。 サーキット設営から撮影しようと思って、早めに入ってみたものの、実は殆どが完成しており残るは、ペンキ職人によるペインティングを残すのみとなっていた。(しまった!これでも遅いのか?) でも良く見ると、交通は遮断されており、サーキットを歩く事が出来る。 「わおぉ」である。 一周4キロ無いから、簡単に歩く事が出来ると踏んでいた。まさにその通りだったが、なんせ暑い。 暑くて暑くて、レーシングスーツレプリカをイチビッテ着てきた事を後悔する。(しかし、これが後程の幸運を呼び込む) しかし、湿度がさほどないのか腕まくりだけで結構頑張れる事に気づく。 とにかく、撮影地を探す探す・・・。 コース上を歩いたり、鉄柵の内側を歩いてみたり。 しかし、どう考えても鉄柵が邪魔で撮影どころではない。「この鉄柵の上から撮るしかない」「しかし自由席チケットしか持っていないし・・・」 途方に暮れながら、サーットを毎日2周もしてしまっていた。 「そうだ脚立!」「脚立を買おう」「脚立で柵の上から撮ればいい」 なんとも簡単な考えであるが、結構役立つ事になる。但しGPウィーク・木曜日の、たった一日だけ。 木曜日は脚立を担いでホテルを出発。服は相変わらずレプリカ(綿100%)。今から考えると異様な姿である。 この日は一般客がコース内に入れる最終日。 いつも通り、コースを歩いてみる。 予定では第5ターン付近の入口から入り、裏ストレート方面に向かって歩き、ピット前での撮影予定。 未だに、ペンキ職人によるペィンティングが行われている。 さすがにFOSTER BEERの看板だけは、殆ど完成しているが、コンクリートブロックに書かれるMARLBOROの宣伝だけは、未だに終っていなかった。 彼らにレンズを向けると、さすがに陽気なオージーらしく、ペンキのはけを持ち上げて「YEAH」という感じ。 頭にペンキが垂れるのも気にせずにポーズを取ってくれる。 さてピット前だ。 昨日までの様子と違い、この日は車両を組み上げているようで、スタッフの数も多くなっていた。カウルを磨いている人、車体を持ち上げてバランスを見ている人、指示している人。 小生は背が低いので、脚立を使って、人間の壁を越えて撮影開始。脚立が役立ったのは、この時だけであった。この出費は痛かった. 実は、CAMEL LOTUS HONDA TEAM前では、人気が無いのか人だかりも無く、ピットウォールにもたれかかって作業を見ていた。 すると、ピット内にいるスタッフの1人が、観客である我々に向かって 「そこの人!君!君!おいで!」って手招きする。 一体誰の事を指して言っているのか分らないまま、横を見たりしてキョロキョロしていると、その「君」とは、小生の事を指して言っているのだった。 流石に派手な服を着ていたからだろうか、ピットウォールを乗り越えて、ピット内に招待された。 この時、舞い上がっていたのだろう、脚立の事など完全に忘れていた。結論から言うと、誰も盗んでいなかったが・・・。 後になって分った事だが、その小生を手招きした方は、中嶋さん担当メカニックで名前をティム・デンシャムさんと言います。 フジテレビのF-1中継をご覧の皆様なら、今宮純さんの口から何度も出てきた人の名前ですね。 ピット内に入れるなんて、暑苦しいレプリカを着ておいて良かった! 24才の青年が子供のように喜んだ瞬間です。 言うまでも無く、写真撮りまくり(勿論ティムさんには許可をもらいました。タドタドシイ英語で) 次回の日本帰省時には、その時のネガを探しておきます。今ここにはありません。 ネガで撮ってしまったから。ポジなら持って来ていたはずなのですが。 途中でフィルムを交換するほど撮ってしまい、ティムさんにお別れしました。 その時、彼が「サトルなら、明日来るよ」と。 小生は冷静でした。「明日、ここには入れないんだよ、俺。」 それでも優しい一事に、中嶋さんではなくて、彼ティムさんのファンになってしまったのです。 後に、中嶋さんがTYRELL TEAMに移っても、ティムが一緒に移籍したという話を聞いて、 感動したものでした。 翌日、街中で彼とすれ違っても、挨拶をしてくれる優しい方でした。 金曜日、予定通りフリー走行が始ると、一般客である小生は、皆さんと同じようにサーキット内側のエリアでしか観戦出来なくなりました。 脚立を担いでの移動は困難になり、前日までに決めておいた撮影地である、 第9ターンに向かい陣取る。 ピットに入れてもらった後のことだが、もう一度コースを下見で歩いた時に、脚立が全く必要ないことを発見してしまう。 それは、コンクリートウォールの上に取り付けてある鉄柵が、等間隔で少しだけ(50センチほどかな)浮いているのを発見した。 浮いているというより、隙間があって、そこから緊急時にコースマーシャルやドライバーが出入りするという空間でした。そこからコースを直接狙える事が分りました。 「もう少し早く気づいていれば、脚立(AUS$90)を買わなくても良かったのに」と悔やまれた訳です。 勿論、鉄柵に直接もたれかかる事は、マーシャルかカメラマンしか出来ない技なのですが、コンクリートウォールの1メートル程後ろには、ビニールで違う柵が張ってあって、一般客はその内側から見る事になるのです。 でも場所によっては、その鉄索の空間から、何にも邪魔されずに、レーシングカーを撮影出来る訳です。 (これは、絶対にここを抑えないと、良い写真は撮れない・・・と悟る) 金曜日の朝のセッション走行で上手くそこをゲットして、もう使わなくなった脚立を、ビニール柵の内側に置いて撮影しました。 その時、最高気温が38度。 FOSTER BEERを初めて美味しく頂けた瞬間だ。 NZにいたから、オージーのビールは絶対に飲まなかったし、飲んでもまずくて飲めたものじゃなかった。 NZ人はオージーのビールをPOISON(毒)といいます。 彼らは、NZ BEERをおしっこ・・・といいます。 さて、昨日も脚立を盗まれなかったので、このビニール策の内側に置きぱっなしにしても大丈夫だろう・・・と言う事で、自由席エリアに散歩に出ました。 でも戻ってきたら、無くなってた。 マーシャルさんに取られたかな? で、もう必要ないので、盗難届けも出しませんでした。 後から考えれば、セカンドハンド販売店に売って帰国すればよかったと、少し後悔。 でもその頃、オセアニアでは中古販売が当たり前・・・というのを知りませんでした。 さて脚立も無くなり身軽になった小官は、違う撮影地、鉄索の空間を求めて、視点を変えて再び、歩き始めました。 そこで、今レース最大の出来事が起こります。 |