1990年鈴鹿サーキット |
しかし、今年も指定席をゲット出来なかった・・・。 悲しい事だ。 去年の出来事には懲り懲りで、「今年こそは指定席で見るぞ。」と、息巻いていたのですが、結局アカンかった・・・。 今年は、4月まで山篭もりでスキー検定1級をゲットを目指していた。 運良く、ど素人シュテムターンスキーヤーが、たったの2ヶ月で合格出来、その後は小生の将来の為に必要な資格を取る為に勉強しながら、明○製菓の夜勤に勤めたりしておった。 その年の旅行業界の国家資格である一般旅行業務主任者試験(長い名前だ)合格を目指しておった。 試験日は、体育の日、10月10日である。(去年から、体育の日は毎年変更になるそうだが) 大学受験以来、久しぶりに勉強をかまし、試験後は鈴鹿GPで盛り上がる・・・というシナリオがあったが、鈴鹿の指定席はことごとくゲット出来ずに、結局去年と同じ自由席券だけで鈴鹿に来てしまった。 しかし、この年が一番リッチなテント生活だったかもしれない。 なんせ、大阪からの移動はバン。車内には原チャリも載せてあるので、何所にでも行けてしまう。 頭数も3人。相変わらず女性はいない。 そりゃそうだ、3日間も風呂に入れないばかりか、毎朝5時起床というハードな生活について来る女性などいる訳がない。 さて、いつも通り木曜日の夜に大阪を出発し、鈴鹿には午後10時頃までに入る。 そうでないと、毎年のF-1人気の為だろうか、南コースにテント設営が出来ないのではないか・・・という不安感があるからだ。 今年は1人がバンの車内に寝て、小生ともう1人がテント内で寝る計画だ。 バンに積んで運んで来た原チャリで鈴鹿市内に出て、ホカ弁で白いご飯だけ買って来る。後は、計画通り焼肉である。酒も十分だ。 しかし、余りの深酒は、翌朝5時起床にこたえるので、少し控えめ。野郎ばかりの生活だ。酒を飲むスピードもそれなり・・・。 またもや、朝5時起床。6時開門に合せて起きる訳だが、それでも早くはない。 おまけに年々年を取ったせいか、酒が残っているような感じもする。目指すは毎度のスプーンカーブの自由席エリア。 しかし、この年の写真が殆ど奇麗な状態で残っていないのである。 おまけに天候もすぐれない日が続き、フィルムの感度を上げて撮ってはみたがやはりポジの高感度フィルムは使うものじゃないです。 撮影コーナーで紹介している写真はたったの一枚。この事実が、この年の天候の悪さを物語っている。 さて、レース当日だが、もう去年の二の舞はゴメン・・・ということで、真夜中の入場は諦め、最悪の場合でもデグナーカーブが見渡せる、非常に人気のない場所でも・・・と覚悟を決めて、この夜も酒を飲んで眠りについた。 勿論、良い席など残っている訳も無く、我々はウーォクマンでFM放送を受信しながらの観戦となった。 そして、レースが始まったが、あの2台はデグナーまで来る訳がなかった。 その2台とはご存知の通り、この年からフェラーリーに移籍したアラン・プロストと好敵手アイルトン・セナである。 FM放送を聞いていると、意気なり第1コーナーで接触したことが告げられる。 「タハハ・・・あの2人を予選で見ただけで、今日はこれでオシマイ」 先頭はゲルハルド・ベルガー、そしてナイジェル・マンセル・・・と続く。 しかし、2週目にはそのナイジェルがトップで戻ってきた。 ゲルハルドは第2コーナーでスピンしてしまったらしい。 これで、大暴れマンちゃんの優勝も決まり! と、思っていたら、そのマンちゃんも目の前で煙と共にストップ。 なんと先頭はネルソン・ピケである。 またまたビックリは、2位にヘリコプター事故のアレッサンドロ・ナニーニに代わってのロベルト・モレノ。ベネトンのワンツーである。3位に鉄人リカルド・パトレーゼ。 しかし、最大の驚きはその次に鈴木亜久里がいることだ。さすがにランボルギーニの12気筒は良い音がしていた。 驚きはレース中盤。3位を走っていたリカルド・パトレーゼがタイヤ無交換作戦に失敗したらしく、ピットインを余儀なくされる。そこで必然と亜久里が3位に上がる。 まあ、ここからが盛り上がった。 小生も腕時計のストップウォッチ機能を活用し、ロベルト・モレノとの差を毎週測り「イケイケ」の声援。 日本人として初めての表彰台をゲットしたわけやね。 FM放送が、これほどまでに盛り上がりをくれたので、翌年も持っていくことになる。 毎度の事、8時からの放送を見て、真夜中にテントをたたんで帰途についた。 その年の残りは、会社に就職し、主任者試験の発表を待つだけとなった。 |