1991年鈴鹿サーキット 
 
 おぉっと!どういう訳か、グランドスタンドの座席に当選してしまった。適当に出した、指定席申込書の第2希望だった、S1席が4人分も当選だ。
いや当選したのは良いが、入金しなければ無効になってしまう。

4人中1人は、間違いなく仲間の座席として譲ってやるつもりだが、仕事の関係で大阪から名古屋に出て来ており、F−1仲間も名古屋にはいない。どうしよう・・・2席分余った。

料金は全額(確か32000円が4席で128000円)納入し、一応確保。
などと苦しんでいる時に、ある仕事相手会社の女性が、何所からか小生の状況を聞き付け、2人分譲ってくれと申し出てくれた。

女性だからご一緒に・・・とか色気を出したのもつかの間、彼女たち2名は毎日電車で通うこと判明。小生1人だけが、車で名古屋から参加する事になった。
あとは皆、大阪からの参加だ。

この91年は、さすがに例の望遠レンズの使い方にも慣れ、仕事に就いた事もあってフィルムを大量に購入。
時にスプーンカーブの第2カーブのクリッピング直前の撮影に集中し、今年も西コース裏の駐車場にテントを張り、木曜日の夜からのGPウィークに突入した。風呂は日曜日の夜中まで入れない。

ここで素晴らしい人と出会う事になる。
実は、その人が中距離ランナーで、中学の記録所持者だというのだ。弟の友人がその人だ。

毎年、南ゲートから、目的地のスプーンカーブ自由席の最前列までダッシュするつもりでいたがさすがに年齢の為か体力も衰え、約2キロのダッシュが出来ない身体になっていた。
おまけにカメラ機材は毎年重くなり、走ろうにも走れない状態。そこで、彼に走ってもらい、撮影地確保をお願いした。

起床は午前5時。ゲートが開く時間は午前6時。やはりゆっくりし過ぎた。既に200名近くが並んでいた。
「遅かったか・・・」
不安だらけで、午前6時を迎える。

さあダッシュの準備をしていると、まだ午前5時55分なのに、他の近くのゲートが繰り上げて開場したらしく、既に目の前の逆バンク当たりに人影が見える。
それを係員に指摘すると、急遽会場となった。
心の準備も不足していたが、体力も不足していた。やはり睡眠時間が足りない。

何故なら、鈴鹿の夜と言えばパーティ。BBQや鍋で盛り上がり、遅くまで盛り上がってしまうからだ。

しかし、そんなことは言っていられない。とにかく走るしかない。
何故なら、今回は中学チャンプがいるといえども、200人が前を走るだろうし、しかも他のゲートが先に開場になり、それ以上の500人近くが先に入場したに違いない。

焦った。今日まで計画して来たことが水の泡か・・・と。

しかし、その不安は無意味なものだった。
何故なら、陸上チャンプは荷物も持たずに走っており、500人を全部抜いて、しかも頼んでおいた場所を確保し、5分間は誰も来なかった・・・という快走ぶりだったそうだ。
あとで「誰がそないに速く走れっつうた」と、大笑いになるヒーローぶり。お陰で、生涯で最高の一枚を撮影出来ました。有り難う。

500ミリ超望遠レンズに、1.4倍のテレコンを付けての撮影でした。素人の限界ですわ。レンズも腕も体力も。


この年は、アイルトンの希望が通り、ポールポジションがそれまでのインサイドからのスタートではなく、外側のタイヤかすが沢山付いた方に変更になりました。
しかし、人生って面白いもので、セナはポールポジションを獲得出来ませんでした。

確かゲルハルド・ベルガーが、コース記録の1分34秒700でポールシッターになったのですね。
セナは彼に及ばず、予選2位となります。

この事が小生には大変幸運な出来事となりました。
何故なら、小生の座席からは予選第2位、4位という偶数番の車が、鉄柵の上に見えており、撮影にはなんら邪魔になるものが無くなった訳です。小生の前に座っている観客の頭を除いては・・・。
奇数番号のグリッドは、ホームストレートの鉄柵が邪魔で撮影どころではないからです。

早速、超望遠レンズをセナに向け、彼がコックピットに座り手袋をはめる所などを撮影出来た訳です。

さてスタート。去年の様な、第一コーナーでのセナ・プロストの接触はある訳も無く、2台のマクラーレンが2台のウィリアムズを抑えて行った訳です。

メインスタンドの殆どが先頭のゲルハルド・ベルガーとアイルトン・セナ選手を目で追っていたのですが、小生だけは、明らかに中嶋悟選手を追いかけていた時、悲劇は起こりました。

小官は大きな声で「あ”ーーーーっつ」と叫びました。
何故なら、丁度S1スタンドの向こう場面、いわゆるS字のカーブで、中嶋さんがクラッシュしたのが見えました。近くに座っていた観客は、小生の叫び声に驚いた様子。

「なんだあいつ!変な大声出しやがって・・・」と言う感じで、皆さんの視線を浴びたのです。皆さんはトップの2台に気を取られ過ぎて、彼のクラッシュは当然見ていないからです。

おまけに良く見ていないと、S字カーブのコース内側の宣伝用看板が邪魔で、そのクラッシュした瞬間も良く見えない状況でした。

周囲の皆さんは、一体何が起こったのかを理解するまでに、相当の時間がかかったようです。
小生の友人も、チケットを譲った2人も同じでした。

「中嶋さんがリタイヤした」「あそこで」・・・と言うまで分らなかったようです。

最後は途中から首位を独走していたセナと追随のベルガーが、余裕でワンツーフィニッシュをかましてくれると思いきや、最終コーナーで首位を譲る場面にも遭遇しました。
最終コーナーまでは、かなりの距離がありますが、先頭を譲った事は容易に分りました。

表彰台では、何故かマクラーレンのチーム監督、ロン・デニスが見当たらなくて、「一体何所に行ったのか」「マクラーレン関係者が表彰台に誰もいない」と思っていたら、表彰を終えたセナ・ベルガーの2人に向かって青いごみ箱に貯めておいた水(?)をぶっ掛けた姿が印象的でした。

そして心の中では、中嶋さんの鈴鹿の最後の晴れ姿を見届け、小生の中嶋さん応援記は終るのでした。

そしていつも通り、テントに戻り、夜の8時からのF-1中継を持参した小型テレビで見て、終了後も道が混んでいるから、午前0時頃まで寝て、それから帰途につく作戦をとったのです。

中嶋さんも引退したから、小官も鈴鹿に来るのは今年が最後かな・・・と心に言い聞かせ鈴鹿を後にしました。
事実、それ日以来は鈴鹿に行っておりません。

この国ニュージーランドに住んでいる限り、仕事が繁忙期を迎える10月や11月に
日本に帰省出来る訳が無い。

久しぶりに、スプーンカーブのいつもの場所で撮影したいな。
でも、その場所を確保する為には、2キロも走らなければならない。
この老体にムチ打っても、場所の確保は無理やろうなぁ。
2キロも走ったらしんでしまう。
チャンチャン。

終わり。
 




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