1989年鈴鹿サーキット
 
 「レースも終盤。目の前にやって来たマクラーレンの前ウイングがぐらついている。ヘルメットは黄色。さっきまで2台のマクラーレンがくっついて走っていたのだが・・・。」


意気なりレース後半の記憶を書いてしまいましたが、皆さんも覚えていると思います。先頭を走っていたアラン・プロストとアイルトン・セナが、トライアングルシケインで絡んだ年です。

小生達は、まだ自由席だった第2コーナースタンドに陣取っていました・・・。
 
 
 さて既にこの年の7月には、1年間滞在したニュージーランド(以下NZ)より帰国し、再び運送会社のアルバイトをしながら、目指せスキー検定1級合格・・を合い言葉にし、冬が来るのを待っておりました。
そこに、再びF-1鈴鹿GPの季節がやって来た訳です。

運送会社のアルバイトの面々も、何時の間にかF-1に汚染され、小生が撮って来た映像などを見てはF-1熱を上げる人もいた訳です。そこで、いっその事、皆で見に行こうと言う事になり、自由席券の予約に入った訳です。

バイト仲間とは、既にレース予想の年間得点王者を争っておりました。
毎レースの1位から6位までの着順を予想し、正解した順位の、ドライバーズポイントと同じ得点が与えられるゲームです。
1位を当てたら9点(当時は1位は9点だったような気がする)・・・という風に得点する訳です。

かなり盛り上がっていた雰囲気のまま、皆で鈴鹿に押し寄せ、毎度の事だが南コースでテント生活に入った訳です。

この年の写真映像が少ない理由は、色気を出し過ぎて、実家で購入したビデオカメラを持参してしまい、写真と両立させることにしたためです。だから、上手く撮れた写真が少ない訳です。
この反省は翌年の90年も続きます。

今回は、テント生活の日記よりも、最終日決勝をどの座席で見るのかを語って終わりにしたいと思います。
実は、この年は前述した通り、憧れの第1・2コーナースタンドの自由席で見たいが為に、前の晩から入場門前に並ぶ・・・という、とんでもない人気ぶりの為に夜を明かした話です。

金曜日と土曜日はいつも通り、南コース駐車場でテント生活をしていましたが、
決勝の日曜日ヘ向けて、土曜日の予選後は軽く夕食をとり、そのままメインゲート前に並ぶ事でいち早くサーキット内の座席を手に入れようとした訳です。
自由席券しか持っていない連中は、我々も含めて並ばないと良い席が保証されなかった訳です。

しかし、気づいた時には、かなり後ろの方に並ばざるを得なくなり、静かに最後尾に陣取りました。サーキットゲートの前です。

開門は確か土曜日の午後11頃だったと思います。
長い時間を過ごし、実際ににその時間が来てみると、もう運動会の始まり状態で皆目的地に向けて、真夜中のダッシュをかましている訳です。

小生達も、一斉に第2コーナー自由席スタンドへ走りましたが、途中で、みぞに足をとられて転倒している人もいるし、既に脚立持参で柵の上から見られる場所を確保している人もいる。
揚げ句の果てには、男女のトイレの屋根に登っている人もいる。

そんな中、小生達は予定通り第2コーナーまでやって来ましたが、既に数千人が陣取っている状態でありました。仕方なく、最前列に陣取ってしまいました。

「ふぅ」と溜め息を漏らすのですが、時間はまだ午後11時15分。
朝のウォームアップ走行は、午前8時30分から、決勝は午後2時からと、超ロングな待ち時間があった訳です。

準備のいい人は、毛布などを持参し、スタンドで寝ている人もいるが、殆どの人が、不眠で過ごした感じでした。

長い長い一日でした。

だから、プロストとセナが接触した事も、その後コースに復帰したセナが、アレッサンドロ・ナニーニを猛追し、結局1位でチェッカーを受けた事も、その後失格になった事も、何だかもうろうとした記憶の中でしか覚えがなくて、非常に残念な最終日だったと記憶しています。

翌年から、指定席を狙う小生の姿があったのは言うまでも無かった。

決勝後は、午後8時からのテレビ放送をテント横で見て、直ぐに出発しても、国道1号線に出るまで、何時間も掛かるのを知っていたから、一寝入りしてから撤収。
大阪までスクェアーのF-1テーマ曲であるTRUTHを聞きながら、名阪自動車道を戻って行ったのです。






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